想うこと

昨日は旅日記風に書いてみました。

しかし、この旅ほど「あー死者の処遇なんてやっぱり生者の鎮魂の一環に過ぎないんだなぁ」と思わせることはありませんでしたな。なにしにいったかっつーと故人の骨を文字通り埋めに行ったんですけど。まぁ実際は埋めたり沈めたり撒いたりと、場所と形状に応じて様々。もちろん正式に埋葬したわけではなく、成分としては恐らく大部分がカルシウムのその欠片を一つ一つ埋めたり沈めたり。D.C.市警に見つかったら確実に職務質問の対象です。

で、結局この行動はなんなのかなーと手を動かしながら考えていたんです。故人の遺言に基いているわけでもなく、もちろん今流行のセカチュー如きに触発されたわけでもなく。ただ故人の最愛(であって欲しいんですが)の者の考えでは、7年前くらいから極々自然にそういう運びになっていたようです。もちろんそんな人が考え付いたことに異議なぞさしはさみようもなく、残された人間の一人として同伴したんですが。

その「相手が最も望むであろう」ということで、そうであると確たる証拠も無いのに実施された今回の供養(?)は結局生きている人間にとって一つの区切りだったんだろうなぁと。(余計なことですが、骨を日本とアメリカにバラバラに埋葬(?)された方が成仏できなさそうじゃありません?)その根拠となるのはこれまた歯がゆくなるような言葉になりますが愛ってやつなんだろうなぁと。愛ってゆーか、理解?「世界の中心で理解を叫ぶ」とか「理解してる〜って言葉〜だけ〜で〜♪」って変ですね。でも長年連れ添うと最終的に相手を理解できるかっつーと、当人いわく「最期までわからん人だった」らしいのでそういうわけでもないみたいですが、まぁでも20年以上身近に居ればそうでない人よりは確実に理解が深まるもんでしょう。

じゃあ理解したからどうなんだって問題になってくるわけですが、人間logicallyに理解したからといって、それを原動力にして行動を起すことは稀でしょう。妙な例になりますが、Aさんとは理論的には相性がいいということがわかっていたとしても、その人に言い寄るかってーとそれはまた別の問題であって、逆に理論的には絶対相性が合わないとわかっているBさんにホの字になることだってあるわけじゃないですか。(まぁ人間関係を例にとってlogicもクソも無いかもしれないんですが)結局最後の行動決定はpathosに依存するってことになるんですかね。よくわからなくなってきましたが、logicでは今手にある欠片は焼いた骨であり、カルシウムを主成分とする物質であり、そこに霊的な云々が関わっているという立証はあらゆる方面からされていないんですが、それが最愛の者の遺骨であり、故人を理解しているという確信があるからこそ、いい加減五十路になるってーのに色々と情念が絡む土地に戻っての供養だったんだろうなと。そんなことを思いつつも、やっぱり桜が綺麗なところがいいよなーとか、川に流すとそのまま大海に出て行って循環に乗るんだろうなーとか思いつつ歩いて、埋めたり沈めたり撒いたりしてた自分も居たので、やはり個人レベルではpathosが強いのはしょうがないんだろうなと思うことしきり。

一種こういう情念とかって奴が人間の歴史を大きく動かしてきたことにまで思いが及び始めると、割と罪作りな生なんだなぁとの実感も。かといってlogicに基き行動するばかりの人間と私は友達になれそうにもありません。あなむずかしや。