子供を殺す社会

久々。

連日朝から
「幼児が殺された」
「小学生が自殺した」
「小学生が殺された」
「中学生が自殺した」
「中学生が殺された」
「高校生が殺された」
「高個性が自殺した」
なんてニュースを聞いていると、聞いている身がまいってくる。

なんだろう。
事実自体に対する嫌悪感というんだろうか。
なんだかキモチワルイ。
てゆーか羅列して眺めるだけでもこれらの字面はキモチワルイ。

とりあえず子殺しに関しては議論も同情も余地が無いので割愛。
殺した人間はあの世に詫びを入れに行けばいいと思う。

小学生とか中学生とか、まぁ高校生もそうだし大学生もそうだし、人によっては社会人になってもそうなんだろうけど。生きている中で生じる出来事の中で「死んだ方がマシ」ってのは、本当は結構レアで。
後々振り返ると「なんだ、あんなことだったか」と思うだろうな、ということでも、後々振り返るハズだった当人が死んだら全く意味がないじゃない。
別に、それをバネにして強くなれ、というんじゃなくて、単純に人生に対するある程度の楽観主義が生まれるか生まれないかって境界線だと思うんだけど。その境界線のラインが小中高くらいの年代だと思う。まぁその境界線上で悲観主義に振れてしまっているのかもしれないけれど。

ここまで書いて既に何を書いているのか自分でも怪しい。

ただ多分、確実なのは「死んだ方が今よりも楽になる」という選択肢を選ぶのには「今、自分をとりまいている環境よりは明らかに死んだ方がマシで(仮にクリスチャンなら地獄に行く方がマシで、仏教となら無限地獄に堕ちるのよりマシで、無神論者なら何も無くなる方がマシ)、それが今後変化することはないだろう」という予測があるんだろう。
結局、ここが最大の問題で。
ヘラヘラと日々生きている人間にとって「え、マジで?」と思うくらいの衝撃。
もちろんそりゃ人間と付き合ってりゃ色々ありますけどね。ええ、色々と。
でも同じくらい人間と付き合ってるから楽しいこともあるかなぁ、というのを感じるし。
そのバランスが完全に後者に振れて、崩れて来ているのかな。

多感な時期だから…といって悲しいことばかりが増幅されるわけではないし、単純に今の子供たちは日々に楽しいことが少ないのだろうか。幸福の絶対量というか。

天秤にいじめと、その他全て自分の周辺をかけて、命を絶つ方に振れるほどに、そう振れてしまう子が多いという程に、子供の世界は負の感情に満ちているのだろうか。全く無い、というのは無理でも、多少なりともプラス寄りになるくらい、彼らの日常は楽しくないのだろうか。

先日、祖母の法事の際に従兄弟がお子さんを連れて来ていて。
まだ1歳になったばかりだったけど、あのコロコロしたのが5年後には小学生。12年後には中学生。15年後には高校生になる。彼がそんなに暗い世界に入っていくのかと思うと、叔父…じゃないな、(従兄弟の子供ってなにになるんだろう…)として心配にもなる。
他人事じゃなくて、なんかの拍子に(どんな拍子だ?)自分も子持ちになったら、その子をどこに向かわせれば良いのだろう(まぁ親がこんなんだから、どこに行ってもなんとなく元気にやっていく気もしないでもない…)。

近代になって子供は発見された。
社会的に「大人ではない」存在じゃなくて、子供が「子供」として再認識された。彼らは別に大人になるためのトレーニングをしているのではなくて、彼らには彼らなりの価値がある、という革命的なことを社会全体で(まぁ西欧全体でだけど)認めたのは大人たちである。
それから、ようやく数世紀経った。
その概念が日本に入って来てから、おそらく1.5世紀くらい。

日本はそれだけの時間をかけても、子供たちが生きることのできる環境を、権利を、制度を十分に整えてこなかったのだろうか。
子供を殺す社会に未来はないし、子供を殺す社会で子供は増えない。

…海外への移住も真面目に考えようかなぁ(←現実逃避)
でも真面目な話、子供が出来たら海外へ、は検討に値すると思う。もちろん後に帰ってくることが前提ではあるし、自分で責任もって日本語やら母国への理解やらを植え付けないといけないけど。

日本にいると日本語が便利過ぎて、語学力を伸ばすのが難しい…。
そして英語か中国語、どちらか(出来れば両方)出来た方が、今後日本のためには役に立つ(別にお国のために、ってわけじゃないけど。でも自分のルーツである国くらいは大事に考えていいと思うのよね)

まぁ10年も居て、ロクに喋れない駄目帰国子女が何を言うのか、という感じですけどorz