んで

新宿に着いて、残り3人と別れ、中・高の先輩mayaと合流。仙台から舞い戻ってらっしゃるのはいいんですが、前日に連絡が来るとか急すぎデス。ここぺりが合流して、3人で夜の新宿をフラフラ。金曜の夜ってこともあって、結局チェーン系には入れず、ちょこっと入ったところにある焼き鳥屋さんで鳥をつまみつつだべり。混んできたので、村さ来に移動してだべり。相変わらずの面子で相変わらずの感じです。
「mokuは中学の頃から変わらない」って言われたので「自分大好き人間だから変えないようにしてるんですよ」って答えたら驚かれた。そこから日本の教育談義だとかに発展していったのはこの面子じゃ初めてかも。やー、話題が大人っぽくなったもんです(違
はてまぁ、でも実際問題として「自信を持て」と「自分を好きになれ」と小学校低学年から延々と刷りこまれてきた効果ってのは未だに健在のようで。別に現状に甘んじようって話ではないんですけどね。短所も長所もあるけど、全部ひっくるめてIt's me!って感じでしょうか。その上で、じゃあ自分はどう生きようかって方向を見定めてるだけで。今よりより良い自分ってのは確実にあって、でも外観だとか態度だとか言動を変えることがその自分に近づくための方法だとは思ってないから変わってないってゆーか変えないんでしょうね。付き合う相手、そのシーンによって相当強弱硬軟変えてるんですケド。
土台というか基礎の部分は意識的にハッキリさせておかないと、何をするにしてもグラグラしちゃうじゃないですか。人種を含め、外見についてのやりとりがほとんど交わされない(特にネガティブな内容は)文化、尊重されるのは「能力」(勉強でもスポーツでも芸術でもなんでもいいんですが)だけって文化だけに、その基礎作りは本当に気合が入ってたと振り返ってみても思う。何かができれば認められるし、本当に大したことの無い「何か」で十分。正確には、何もできなくても何かができるようになっていく途上であれば大抵許容される。教育段階であれば何かができるようになろうとしていれば大丈夫。
自分の場合は日本語が出来て、算数が(当時は)できて、理科も好きだった。クラスには辞書をほとんど丸暗記してるインド人がいて、ひたっすら読むのが早い白人がいて、よく喋るだけの中国人もいて、イタリア訛りの南米系がいて、プレゼンがやたらと上手いユダヤ人がいて、ラマダンになると空腹でフラフラしてるアラブ人がいた。大層混沌としてたけど、そんなところに英語の読み書き喋りが全部ダメな丸々とした日本人が混じってても別段違和感は無いわけで。むしろ日本文化についての発表をしたりひらがなを教えたりと出来ることをやってればそれをそれとして評価してもらえる。
今後日本がいわゆる「欧米流」の実力主義だの成果主義だの自己責任だのの時代に移っていくのはもう止めようがない流れだと思う。一方で、じゃあその流れに乗っかれるような図太く図々しく野放図で無遠慮だけど、正当に相手の能力を評価することができるような人間が大多数を占める社会へと移行する準備があるのか。まぁ無くても頑張って適応するしかないんだけど。少なくとも、意思表示をする能力と意思表示が許される環境の整備は教育の責任の一部。