これはこれで

スローライフなんだけどなぁ。

「生き急いでるよね」
とか
「いつも忙しいよね」
とか
言われるたびに、ふと思う。

いやだって普段のおいらの姿を見たことがあればわかるだろうけど。到底機敏な動きであっちこっちを行ったりきたりしてる人間ではないですよ。

むしろこう。

のそーっと
とろーっと
のんべんだらりーのっと

ナマケモノのようにダラダラ動いてることの方が多いわけで。

そもそも脳みそが通常の3割増しで低品質なため、そういう高速処理には向いてないのですね。そういう無理をすると、すぐ脳細胞が劣化するから。
普通なら同じよーなものを同じよーに処理すれば、脳内に処理するためのアルゴリズムが出来上がるから、経験曲線効果が示すように単位あたりの処理能力は増えるはずなのだけれども。どう考えてもロクに増えない。

つーか単純作業ではミスを連発して到底使い物にならないんですよね昔から。生徒会でのホッチキス止めしかり、会計でのハンコ押ししかり。

そこで低品質な脳みそ低品質なりに考えた。

単一処理を大量にこなすのがダメなら
複数処理をつまみぐいしよう。

この辺の発想が既に脳みそが腐れてる証左に他ならない。
1つがダメなら2つでもダメだろ。普通に。

きっと「1つに長けた人間はいっぱいいても、2つを中途半端にやる人間は少ないだろう」という発想なんでしょうが、そりゃ少ないだろうけど、少ないのにはそれが効率性の観点から明らかに劣ってるから少ないのであって出来ないからじゃないんじゃない、と大人になりつつある腐った脳みそは幼少の腐った脳みその判断を振り返るわけで。南無三。

まぁ
「アレの経験をコレに転用してその成果はアレに差し戻して」
みたいなことが出来るようになればいいんだろうけど。

そんなことを考えてたり。



でも、ふと。

結局自分は10年前に必要を感じて始めた「居場所探し」を未だに続けてるんじゃないか、なんてことを思ったりもする。どこかに安住する場所があると思って動くのは、結局どこにも安住の場所を見つけられずに終わることを助けるんじゃないかとか。

あての無い旅路が怖くて、蛾のようにそこらに灯ってる明かりにとりあえず引き寄せられて、そんな根無し草をいつまで続けていられるのかとか。

なんかそんなことを漠然と不安に思ったり、考えたことに背筋を冷やされたり、なんだかんだしながら生きてるんだなぁなどと思ったり。

そんな感じの中で唯一できるのはペースを自分で管理すること。力強く踏み出すのか、恐る恐る踏み出すのか、転ぶかもしれないけど大股で歩むのか、安全にソロソロと行くのか、左に寄るか、右に寄るか。

まず間違いなく人生の平均台の幅は誰も彼も一緒なんだから、それが狭く見えるか広く見えるかは自分の心持次第だと必死で言い聞かせながらヨロヨロと歩を進めるしかないでしょうに。転んだらどっこいせと振り出しから歩き始めればいい。大したことじゃない。

それも人それぞれで、平均台がそもそも存在してるのかと歩みを止めて座り込んじゃうのもいるし、そもそも平均台の上を歩くのをよしとしないのもいるし、走り抜けたり、逆立ちでぴょんぴょん跳ねるのもいれば、人の平均台を作ったり、他人の平均台を削ったりも。

でも結局のところ、人生、そんなに深刻に悩まないといけないことなんて早々ありゃしないんじゃないかというところに行き着いてしまったり。誰かが、もしくは、何かが、生きるか死ぬか。それ以外のことで本当に取り返しがつかないことなんてあるだろうかね。
容易に取り返しのつくようなことを、取り返しのつかないような顔をして自分の創った影を相手に急かされる。それだけはすまいと、日々スローにマイペースに過ごそうと思ったり。